ブログを初めて1年が経過し痛感したことは…

ブログを初めてから早1年が経過した。PCやネットの世界に触れるのは早かったが、自ら情報を発信するという気概はゼロだった。ダイヤルアップでパソコン通信の時代には、HPを作ったりネットで書き込みをする人は専門家や特別な人がやるもの、というイメージがあった。そして何よりアウトプットする何かを持ち合わせていなかった。特定の趣味や特技があるわけでもなく、何かのプロフェッショナルでもない。その後時代は進んでブロードバンド時代到来とともにブログやSNSが広まることになるが、その頃は社会人となっておりネットに費やす時間も限られしまった。そのためずっとROMだったのだ。

それが去年の今頃、極身近な人がブログをやっていることを知った。それも何年も前からやっていて簡単に始めることができるということが分かった。極親しい間柄でブログをやっているという人を知らなかった。皆それぞれ表立って言わないだけなのかもしれないが、リアルで知っている人のブログを見るという感覚が不思議だった。極端なことをいうと、テレビで見る人が目の前にいる、それくらいの妙な感覚になった。ネットを介してイキイキとある意味では別人格を形成しコミュニケーションしているという事実に、何か取り残された気がした。目の前にいる人を自分よりもずっと昔から知っている人がいることに。

そんなおかしな嫉妬、羨望、憧れからこのブログは始まった。「誰に向けて」「何をしたい」そのような目的もないまま、単にどんなものかを身を持って体験するためだけに始めたのだった。アクセス数を稼ぎたいわけではなく、ましてやアルファブロガーになりたいわけでもない。やはり「ものを書く」という行為は結構ハードルが高く、そのハードルを物理的に低くしないと、なかなか継続しない。だから凝ったエントリーは書けないし、文章を洗練させるために推敲を重ねるということもしていない。

では1年続けてみて何を感じたかというと。

それは自分の力量の無さを痛感するだけだった気がする。いざやってみて分かったことだが、インプットが貧相な人はアウトプットする力もないという当たり前の事実。文筆力、語彙力、文章力、物事の理解、解釈、日頃の思考内容、思考方法、発想、着想、言葉のセンス…すべてにおいて圧倒的な差を感じた。その結果その人への嫉妬、羨望、憧れは強くなるだけだった。おそらく幼少のころからの読書量と集中力が違うのではないかと感じた。

自分は本は好きだったが分厚い小説はどうにも縁のない生活をしていた。自動車や経済など自分の好きなもの、話題になったエッセイ程度をさらりと読むだけだった。そのような本は事実が書かれているだけで、特別想像力を必要としない。小説は文字から自分が体験していない他人の体験までもリアルに想像することになる。思慮深くなるし、物事を多面的に捉える能力を養うと思う。当然、読書を継続すればするほど、文章を読むのが早くなり内容を把握するスピードも早くなる。日本語の正しい使い方も自然とマスターすることになる。良書も悪書も漫画でも普段から思考を刺激させている人は、そうではない人と比べ本物の知性と感性が全く違う。なぜ僕はそんな楽しいことをスルーしてきてしまったのだろうと思う。今からでも遅くはないので少しでもその人に近づけるよう、多く「読み」多く「書く」ことを継続したい、そう思ってる。

ドキュメントスキャナを買い手持ちの本を電子化してスペース効率をあげようと考えていたが、やはりそれは違うという気もしている。できるのであれば本を沢山置けるような部屋に住みたい。壁一面が本で埋まるようなそんな部屋。そしてお互いオススメの本を回し読みするような生活ができたら素敵だなと思う。

この1年を振り過去の記事をみてると本当に1年は早いと思う。そして1年という月日は自分の環境や心境も変わっているということがよく分かる。極最近もシリアスな問題が起こり、今は少なくとも1年前と比べると運気は悪い方へ流れている。この流れはしばらく好転することはないかもしれない。それでも自分磨きを怠らず、後悔しないよう生きること。そして過去を振り返ることや現在の一時的な快楽より、未来の自分の為の時間を多くとるようにしたい。

1年後の自分はどんなことを思っているのだろう。