3.11から1年。あの日のこと…

あれからもう1年が過ぎた。人生でもそう体験することのない大地震。あの時のことは直後のブログに書くことは憚られたけれど、当時の気持ちを忘れないうちに書き残しておこうと思う。

そろそろ後場も終わるという14時15分を過ぎた時、当時ビルの7Fにいてデスクワークをしていた。ゆったりとした長い揺れに尋常じゃない感覚を抱きつつも、ある程度周りも余裕をもって「地震だよね!?」と顔を見合わせる状態だった。

その後、被害の状況が徐々に判明する。それでもなかなか情報が入らず、アルジャジーラなどの海外メディアの映像をネットで見ていた。そして未曾有の災害だと分かる。

すぐに大切な人へ連絡をしたけれど携帯はつながらず。メールもダメ。インターネットは繋がったのでGmailで何度もメールをした。iPhoneと携帯の2台持ちを勧めていたので、どちらかは繋がるかとdocomoSoftBankWILLCOMを使ってかけたが駄目だった。あの日連絡をした人は間違いなくボクにとってかけがえの無い人です。究極の事態になると、シンプルに自分の気持ちが分かった。(数時間後なんとか連絡がつき無事を確認して安堵した。)

交通網や通信網も寸断され同日帰宅するこは無理だと早々に分かったので、同僚と食事を買出しにいった。地震直後だったのでまだコンビニにも豊富にモノがあったけれど、数時間後に買出しに行った人は何も買えない状態で戻ってきた。

仕事はもう皆放棄といった感じで、災害情報を見るだけだった。JRは全滅で夜遅くになり地下鉄が一部復旧。7割方帰宅を選択したようだったが、結局わたしは一晩デスクに座り過ごすことに。会社からは非常食のカンパンが配布された。

翌日、Twitterのリアルタイム検索で電車の運行状況をみるも不安定極まりなく。どこの駅もパンクして人で溢れかえっているようだった。昼近くまで会社で過ごし、かつて経験したことがないような壮絶な満員電車で帰宅した。あの大きな揺れにも関わらず部屋の中は無傷だった。

↓超満員で大きく傾く電車(友人からの写メ)

帰宅と同時にガソリンスタンドへ向かった。後にガソリンの供給があのような状況になることは予想していたわけではなかったが、何かあったらどこへでも移動できるようにという直感での行動だった。(公共交通機関はあてにならないと思った。)同時に食料を求めていったが、さすがに皆同じように考えたようでスーパーはありえない程モノがなかったがそれなりに入手できた。

↓商品が消えるスーパー(友人撮影)

そして原発が異常をきたしていることが報道され始める。電力供給が低下し停電が始まることになる。テレビでは「原発は安全である。大丈夫だ。」と再三の報道であったが、チェルノブイリ事故や東海村原発事故を知る自分には「違うだろうな。メルトダウンだろう。」と直感した。すぐに身近な人に注意を促したがどの程度伝わったのだろうか。あのヘリコプターから放水する映像をみて、絶望的な気持ちになったのを覚えている。

あの時から何か時間軸がズレたかのように。長く続いた日常が分断されたかのように。いままでとは違う日常が始まったと思ってる。

そして1年。わたしは津波地震も直接大きな被害は受けず、東北の人と比べればなんと恵まれていたのだろうと思うが、心のどこかに闇のような傷を残したのは間違いない。

今日も強い地震があった。やはり時期が時期だけに敏感になる。そしてすぐに思うのは「あの人は大丈夫だろうか」ということ。あの時と違い遠い存在になってしまったけれど、常に頭に浮かぶのはあの時と変わらない。この手で守りたいかけがえのない人。究極の状況・異常な環境は自分の本能と直感が疼く。そして今のどうにもならない状況が悔しい。